良い理由って何だ
はじめに伝えたいのは、この記事を書こうと思ったきっかけこそサッカーですが、内容としては誰しもに当てはまることで、少しでも多くの方に見ていただきたいと感じています。よろしければ読んで頂ければ幸いです。
・きっかけ
きっかけとしては、Twitter上での軽い炎上騒動でした。1週間程前だったと記憶しています。
リヴァプールファンには記憶に新しいであろう、先のチャンピオンズリーグ。
今季の優勝筆頭とまで目されていたリヴァプール。それに対し、アトレティコ・マドリードは監督ディエゴ・シメオネのもと、その堅牢な守備が特徴です。まさに最強の矛と最強の盾のぶつかり合い。考えうる限りのベストバウトとまで目されていました。
リヴァプールは残念ながらラウンド16で姿を消すこととなりました。
そしてこの試合で多くの批判を浴びることとなってしまったのが、GKを努めたアドリアン。
本来リヴァプールのGKを務めるのは、アリソン・ベッカー。しかし長期の負傷離脱によってバックアッパーとして2019年に加入したアドリアンがゴールを守ることになりました。
しかし結果的には延長戦後半、彼のミスもあってマルコス・ジョレンテに得点を許し、勢いづいたアトレティコにさらに2得点を決められることとなります。
そして、Twitterである方が「アドリアンではなくアリソンが出ていれば、無失点で抑えられた」と発言し、それに対し多くの方が反論したことで口論がヒートアップして軽く炎上が起きたというわけです。実際に試合直後にも日本、海外問わずそのようなコメントはしばしば見られたように記憶しています。
個人的意見は、もしもの話で試合結果を断定することはできないと思います。一方、アドリアンのミスが敗北につながったのもまた事実であり、そのようなコメントを多くの方が抱いてしまうのもまた仕方がないことなのかもしれません。
そこで、みなさんに今一度振り返って頂きたいのは、
意見を発信するときは根拠を、そしてその根拠を自分の頭でよく考えて欲しい
ということです。
今回はいままでとは趣向が違いますが、コロナウイルスによって抑圧された社会の中で、日常生活でもSNSを通してでも、人とコミュニケーションを取る際に険悪であったり不穏な雰囲気を感じることが多いように感じます。
ささいなことだけれども、発言をする前にそれを誰かに伝えたい理由と根拠をよく考えて欲しい。そして一人でもいいからこの記事を読んだ方がそれを再確認であったり、実践していただければと思い、ブログを書いている次第です。
・正しい=信頼できる、は間違い!!!
みなさんが行動するとき、当然その行動には理由が伴います。
例えば、学校で落とした消しゴムを探して、結果的に食堂の机の下でそれを見つけることができたとします。
広い学内のうち、食堂の机の下に行き、見つけることができたのは理由があるからです。
1. その日自分が行った場所を思い返して、食堂に行っていたから
2. 友達に聞いたら、食堂の机の下にあったと教えてくれたから
3. 前日の夜に夢で食堂の机の下に消しゴムがあったから(これも立派な理由です)
さて、多くの人は理由を伴った行動は、理由を伴わない行動よりも信頼性が高いと考えるでしょう。ただがむしゃらに探すよりも、関連性があることに則って行動した方が効率的であり、目的を達成できる可能性は高まります。そこにある理由の存在自体が、正しさを証明することになります。
しかし、この考え方は間違っています。
あるアクションに対する信頼性を高めるのは理由があるかないか、ではなく
その理由が信じるに値するだけのものであるか、ということです。
先の例において、1は経験による理由として、信頼性を含みます。
2においても友達の証言からくる理由として、信頼性があります。もしも友達が消しゴムを見ていなかったら、そもそもそんな発言はしないでしょう。
しかし、3はどうでしょうか?
夢で見た内容を、それを現実にも落とし込んで行動したからといって、上の2つに比肩するだけの信頼性はあるでしょうか?
上の2つの例は Justified True Belief(正当化された正しい考え)
3の例は True Belief(正しい考え)に分けられます。
わたしたちがしばしば、理由さえあれば信頼性があると信じてしまうのは、この2つがどちらもTrue, 正しいものであるという点です。
夢で見たとしても、もし本当に食堂の机の下に消しゴムがあったのなら、その理由は正しい理由であり、結果さえ見れば、1や2の例と同じく3もまた”正しい”理由なのです。
しかし、多くの人が理解しているように、夢で見た=信頼性があるではないのです!
つまり、1や2の例と比べて、夢で見たという理由は結果的に正しい行動につながったとしても、それは偶然のことが多く、あくまで正しい行動につながる可能性は限りなく低いものです。
だから、3の例はただの、”True Belief”であり、それらは信頼できる知識や関連する経験などによって成り立っている”Justified True Belief"とは、結果へのプロセスの信頼度という点で、決定的に違うものなのです!!
まずはこの違いを多くの人に覚えていて欲しいとおもいます。発言をするとき、意思決定そするとき、その理由をよく吟味してほしいのです。
・理論武装はあなたを守る鎧
理論武装と聞くと堅っ苦しいように感じるのでもう少し言葉を和らげて、
「あなたによってよく考えられた理由は、あなたの考えや発言を守る鎧」であるとします。
当たり前のことなんですが、日常を振り返ってみると私を含めて多くの人がこれを実践できていないのではないでしょうか?
例えば、あなたが授業で「日本の第50代目の首相は誰か」という問題が分からなかったとします。友達から「第50代は鳩山一郎だ」と聞いて、しばしば多くの人はそれを信じるのでは?
あなたは答えに対する確証も知識も持ち合わせていません。
にも関わらず友達がそういうから、とあなたはその答えを正しいと思い込むのではないでしょうか。
一方、一応それがあっているか確認したい場合に別の友達に答えを聞いたとします。
するとその友達は「芦田均が第50代目だ」と言ってきました。
あなたはどちらの友達を信じればいいのでしょうか?
もはやあなたが最初に思い込んだ「第50代目は鳩山一郎」という考えは二人目の答えによって粉々に打ち砕かれました。
では二人目の友達を信じて「芦田均が第50第目だ」と思い込んだあなたの考え。
これもまた不正解。
正解は「第50代目の首相は吉田茂」です。
つまり、あなたは友達を信じたことで、間違った知識を正しい知識と思い込むわけです。
この例はあくまで授業という範疇におさまっているから大したことではないように思われます。
しかし、この例をももっと拡大して考えてほしいです。
中学や高校で、先生が授業で黒板に書いた答えが間違っていて、それを誰かが指摘するまで気づかなかった経験はありませんか?
選挙にいって投票するときに、テレビやSNSによるイメージで決めた経験はありませんか?
私がつまり言いたいのは、考えや発言に対して、そう信じる理由を自分でよく考えなければあなたの考えや発言は簡単に壊されて批判されてしまいます。
”You are accepting the belief merely on the basis of authority; you do not know its justification; you do not know why you should believe it”.
("あなたはただ権力の上に成り立つ考えを受け入れている;あなたはその理由が成り立つ正統性も知らないし、なぜあなたがその考えを信じるべきなのかという理由も知らない")*1
これは私が今大学で格闘している本からの引用です。
ここでの権力はそのままの意味の政権、さらには高校や大学などの教育機関、さらには友達や家族にも言えることです。高校や大学で私たちは先生や教授から多くのことを学びます。しかし、教わったことを疑問なしにそのまま受け入れる姿勢こそが問題なのです。
ただ疑えということではないです。当然教師や教授は講義に対して責任を持っていますし、生徒に有益な情報を与えてくれます。しかしあくまで生活する上で、常に批判的思考を持つことが、正しい理由を持つことにつながります。
そして、批判はただ悪いことではなく、あなたの考えや発言を守ることにもつながるのです。
・情報に対して批判的であって
ここまでで、なぜ理由がそこまで大事なのかは、理解していただけたと思います。
ではあなたの考えを、正当化する理由や根拠とは何なのか。
思いつく限りあげてみようと思います。
・個人的な経験や知識
・書籍等のしっかりと調査の上に成り立つ情報リソース
・グラフなどを含む学術的なデータやアンケート
・その分野のエキスパートの発言やインタビュー
・演繹や帰納法などを活用した論理的に成り立つ意見
これらの根拠はあなたの持つ考えや意見をより正統性を含む=強固なものにします。
逆に、誰かの記事や発言を信じる際に、これらのようにその記事や発言をサポートする根拠が述べられていなければ、信頼性は大きく減少します。
これがこの記事で最も伝えたいことです。
情報にあふれている今日、どうか与えられる情報に対して、批判的であって欲しいです。
そしてこの記事を読んでいただいた方も、私の意見をどうかそのまま信じないで、理由の重要性について考えて頂きたいです。もしかしたらこの記事にもどこかに批判される穴があるかもしれません。自分の考えを持ち続けることを忘れないでください。
・余談
ここからは余談ですがその上で、この記事のきっかけとなった方の発言について思うことを書いてみようと思います。
当然アドリアンはバックアッパーという立場上アリソンよりもGKとしての実力は劣ってしまうでしょう。試合のデータや、ミスの回数も確かにその事実を支える根拠となりうるでしょう。
しかし、間違いなく言えるのは、サッカーという競技の特性上、もしもの話に絶対性などなく、アリソンだったら止められたという確かな理由も存在しないのです。
批判と非難は違います。非難を含む発言ならばその前に理由を自分でよく吟味して欲しい。
かつ、未来の話ならば、しかもサッカーという不確定要素にあふれたものに関してならば、理由など対して役に立たないものであることを多くのファンが理解していると思います。
なにより、確立であったり予測というものを常に覆してきた最たるクラブこそリヴァプールでしょう。逆境に打ち勝って数多くの逆転劇を、感動と情熱を与えてくれたからこそ私は他のどんなチームよりもリヴァプールというチームが好きです。だからこそ未来の話を断定してするのは的外れだと思うし、予想外のことが起こるからこそサッカーは面白いのです。
ファンにもミスをとがめ、常にチームに勝利を求める権利があると思います。
アドリアンのミスが敗北につながったのは確かな事実。
しかし、彼がかばわれるのは、アリソン不在時に何度もチームを救ってくれた貢献という確かな理由もまた同時に存在します。
それならば、ミスを攻め続けるよりも、アトレティコの素晴らしいプレーに拍手を送り、リヴァプールがアトレティコに雪辱を晴らす日を信じてチームを応援し続ける、それが今のリヴァプールファンにできることではないでしょうか。
・まとめ
今回は今までとは違う形での記事となりましたが、どうしても1週間前から頭を離れなかったので書かせて頂きました。これを読んでいただいた方が、十分な根拠を探し、自分で考えを正当化していくことを実践していてほしいのです。
一人一人がストレスフルな日々を過ごしていますが、だからこそ人と人とのコミュニケーションがなによりも大切なツールです。発言や考えを発信する際に、相手へのリスペクトを忘れないでほしいです。
たかが個人の意見ですが一人でも共感していただければ本当に嬉しいです。
それでは!
引用
*1 Jack W. Meiland『COLLEGE THINKINGS -HOW TO GET THE BEST OUT OF COLLEGE』Penguin Books 1981年